ローマ7章

7:1 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。

 彼は、話を律法を知っている「兄弟たち」と言われる人に向けて語りました。ユダヤ人に語っているのです。律法を行うこととの関係について説明しています。ですから、この話は、異邦人には関係のない話です。異邦人は、もともと律法を持っていないのです。

 律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。

7:2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。

7:3 したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。

 その例として、夫婦の関係について、一方が死ぬときにその関係が解消されることを示しました。そのように、キリストともに死んだ者は、律法から解放されています。支配を受けないのです。

7:4 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。

 ユダヤ人たちは、律法に対して死んでいます。それは、キリストとともに一つとされた者として、死んでいるからです。「キリストの体を通して」と記されているのは、そのことを指しています。ですからもはや律法の適用を受けることがありません。

 そして、死者の中からよみがえった方のものとなります。比喩として妻となり一つのものとされたのです。その方がよみがえられて、肉とは関わりない方となられたように、ユダヤ人も肉のない歩みによって実を結ぶためです。ただし、肉は、存在するので、肉を殺して、キリストとともに生きることで実を結びます。

7:5 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。

 肉にあったものが律法を受けた時、律法によって生きようと努力すればするほど、それに反して罪の欲情が働くのです。肉にあった時、肉の欲を抑えることはできないのです。そして、死のために実を結びました。すなわち、死んだ行いをしたのです。

7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 しかし、今は律法に死にました。それは、戒めによって自分を縛っていたものです。しかし、律法に死ぬことで、もはや律法に書かれている箇条を肉の力で行うことをやめたのです。そうではなく、御霊によって仕えているのです。

 律法は、古い文字、御霊は、新しい御霊と、古いと新しいが対比されてます。

7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

 律法によって罪の欲情が働くのであれば、律法は罪であるのかと問うています。それを強く否定しています。律法がなければ、罪を知ることはないのです。律法の規定があって初めて、罪が何なのかを知ることができるのです。

 ここでは、「隣人のものを欲しがってはならない」という戒めによって、欲望が何かを知ることができるのです。

7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

 戒めが来た時、してはならないことが分かるのですが、その時、罪は、欲望を発揮するように働きます。隣人の持つものが欲しくなるように働くのです。良いものを見れば、手を伸ばしたくなるのです。それは、内住の罪の働きです。禁じられることでかえって欲は、強く働くのです。

7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、

7:10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

 肉にあるならば、律法によって却って罪の欲情が目覚め、死のために実を結ぶということを受けて、パウロの経験を示しました。

 それで、肉にあった時のことを引き合いに出しました。彼が救われて、御霊によって歩んでいるときに、そのような状態があったことを示すことはできないからです。それで、かつて、律法によって歩んでいない時のことから始めています。律法なしで生きていた時がありました。

 そして、戒めが来た時、罪が生き、欲望を引き起こし、死んだ行いをしたのです。戒めが来た時、律法を行うことができないという経験をしたのです。神の前に正しいことを行なって命を得るはずの律法が、死に導いたのです。肉にある時、内住の罪が働いて、戒めに逆らうことを行ったのです。彼は、神の前には死んだのです。この死は、肉体の死でもなく、地獄の滅びでもありません。なぜならば、彼は、生きているし、信仰を持って救われたからです。神の前に実を結ばない状態を死と言っていることがわかります。

 罪は、戒めによって機会を捉え、罪を犯すように働きます。それは、命を与えるのでなく、死を与えるという欺きです。

7:12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。

7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。

 律法は、聖なる良いものです。律法自体が死をもたらすことはありませ。罪が死をもたらしました。罪には、このような性質があります。

7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。

7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。

7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。

 「今」と記されているように、これは、パウロの「今」です。すなわち、手紙を書いているその時のことです。なお、罪を行っている時点については、パウロが信仰を持つ以前であるとの解釈もありますが、誤りです。ここには、「今」と記されています。

 パウロは、律法に対しては死に、律法から開放され、御霊によって仕えていることを言い表していますが、実態は、「肉的な者」であると言い表しています。彼は、完全にされているのではありません。

 律法は霊的なものであり良いものなのです。しかし、彼は、自分がしたくないことを行なっていました。自分は、肉的な者であると認めざるを得ないのです。売り渡されて罪の下にいることは、罪の奴隷であるということです。罪の奴隷として、自分では行いたくないことを行なっているのです。律法が良いものであると認めて同意しているのです。ですから、罪の奴隷となって罪を行なっているのは、もはや私ではないのです。私のうちに住んでいる罪なのです。

7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。

 そして、パウロがなぜそのような状態であるかを示しました。それは、パウロだけでなく、全ての信者に言えることです。人のうちには、二つのものが存在することを示しました。

 一つは、ここに記されている「自分の肉の内」に住んでいる罪です。肉のうちには、善は住んでいません。善を行うことができないからです。願っても行うことができないのです。

7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。

7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、

7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 人のうちには、二つのものが存在し、一つは、「心」で、神の御心を行います。もう一つは、「罪」で、罪を犯させます。人は、神の御心を行うことを喜んでいながら、それを行わないで罪を行うのです。罪は、私たちが神の戒めを行おうとしているのに、戦いを挑んで、良いことを行わせないようにし、それよりは、罪に従わせようとするのです。肉の満足を得ることに価値があるように働き、それによって喜びを獲得するように働くのです。欲望を発揮させようとするのです。

 このような状態を指して、惨めな人間と言い表しています。そのような死の体から救い出してくれるものがあるでしょうか。ここで、イエス・キリストを通して神に感謝しているのは、神は、それを可能としてくださるからです。そのことは、八章に説明されています。結論として、人のうちには、罪が住みついていて、罪を犯させるように働くのです。肉にあるならば、神に喜ばれる実を結ぶことはできません。